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    <title>AJ代表日記</title>
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    <title>子どもに対するアサーティブはあるのか</title>
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    <published>2012-01-17T01:42:27Z</published>
    <updated>2012-01-17T01:57:54Z</updated>

    <summary>最近ある方からご質問をいただきました。それは、「子どもに対してなかなかアサーティ...</summary>
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        <name>汐生</name>
        
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        <![CDATA[<p>最近ある方からご質問をいただきました。それは、「子どもに対してなかなかアサーティブになれない。どうしたらいいのか」というものです。これは、講座の中でも実に多く質問を受けることなので、今日はそれについて書いてみます。</p>

<p>子どもに対してキレてしまう、落ち着いて話したいのについ感情的になってしまう、何か言おうとすると小言や文句になってしまって、そんな自分に自己嫌悪。そういう時に「子どもにアサーティブに言う」にはどうすればいいのか、ということです。</p>

<p>私の考えは、「ノー」であり、「イエス」でもあります。</p>

<p>「ノー」の理由としては、「"対等性"について十分理解する前に、一番言いやすい相手（子ども）を相手にアサーティブのスキルを使うのは、ちょっと待ったほうがいい」ということです。</p>

<p>アサーティブネスの大きな柱の一つに「双方の対等な関係を目指す」というものがあります。親と子ども（未成年者）の場合、経済的にも精神的にもあまりにも大きな力関係の差があり、残念ながら親子の対等性は担保されておりません。そういうときに、親が自分の要望をアサーティブに伝えようとしても、子どものコントロールや管理になってしまう危険性があります。</p>

<p>私たち大人は心の中で「親の言うことには従ってもらいたい」「宿題をちゃんとやってもらいたい」「（大人の望む）"良い子"でいてほしい」などの要望や期待を持っています。それを言葉にすることは実に簡単です。しかしそのような要望をアサーティブに伝えたとしても（みなさんがすでに何度も試した通り）、望み通りの結果になることはほとんどないのではないでしょうか。</p>

<p>したがって、子どもに対してアサーティブに何かを要求する<strong>「前に」</strong>、アサーティブネスという奥の深い理論とスキルを、まずは自分自身に対してと、周りの大人との人間関係の中で、十分に使えるようになってから、子どもと向き合うことを考えていただけないか、ということなのです。</p>

<p>私が考えているのは、次のようなことです。</p>

<p><strong>一つは、親自身が自己信頼を持つことです。</strong><br />
罪悪感に飲み込まれたり周りを責めたりすることなく、周囲の大人と誠実で対等な関係を築く力をつけること。親が子どもにあたってしまうときは、自分に余裕がなかったり、自信をなくしていたり、仕事や家事で疲れていたりする場合がほとんどです。「子どもが○○だから言わなくちゃ」の前に、「自分は何を感じ、何に腹を立てているのか」「本当の問題はどこにあり、向き合うべき相手は誰なのか」を考えて、自分自身と正直に向き合って考えることが先です。その上で、「自分はベストを尽くして精一杯やっている」ということを忘れることなく、自信と誇りをもって子育てにかかわってほしいということです。</p>

<p><strong>もう一つは、パートナーや友人など周りの人に、子育てを一人で抱え込むことなく、上手に助けを求めて協力体制を作ることにアサーティブの理論とスキルを使えるようになることです。</strong>相手を責めることなく自分が卑屈になることもなく、率直に、誠実に、そして対等に自分の求めることを言葉にしていくこと。これはまさに日々の実践で練習できることですね。</p>

<p>日本の子育てをめぐる状況は、決して豊かなものではありません。<br />
それは絶対に変えていく必要があると思っています。</p>

<p>アサーティブネスは直接的に社会を変えていくアクションであるというよりも、親が孤立感や罪悪感に足もとをすくわれて自責や他責、非難等に走ることなく、リラックスして自分を愛し、子どもを愛し、周りの人と協力できる「自分の内側の力」を鍛えていくことに役立ちます。社会を変えていくには知恵も仲間も経済も政治も必要です。社会的な活動をするグループの中でも、メンバー同士が敬意を持って協力し合い、アサーティブに話し合って問題解決ができるようになることこそ、長い目で見てよりよい状況へと変えていく力になるのではないでしょうか。</p>

<p>大人の私たちが、本当の意味で自分も相手も大切にできるようになれば、きっと子どもたちと向き合う姿勢も変わってくると思います。気づいたら「自然に」アサーティブな会話ができるようになっているはずです。その時は、「子どもにどう伝えよう」ということの答えは、すでに自分の中で見えているに違いないと、私自身は思っています。<br />
</p>]]>
        
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    <title>問題解決のための対話の力</title>
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    <published>2011-12-24T03:11:44Z</published>
    <updated>2011-12-24T03:19:07Z</updated>

    <summary>アサーティブトレーニングの中で行うロールプレイでは、「相手に〇〇を伝えたい」とい...</summary>
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        <name>汐生</name>
        
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        <category term="事務局から" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>アサーティブトレーニングの中で行うロールプレイでは、「相手に〇〇を伝えたい」という思いを具体的な要求にして、攻撃的でもなく受身的でもなく誠実に率直に対等に伝えていくということを練習していきます。しかし、どんなにアサーティブに伝えたいという思いを持っていても、必ずしもそれが本当に問題解決につながっていかない場面に遭遇することがたびたびありました。</p>

<p>私たちの主催講座の「アドバンス講座」の中では、「相手を攻撃しない感情の伝え方」、「立ち位置を対等にする」などのテーマで、そうした「問題解決に向けての対話」を進めていくことに時間をかけて取り組んでいきます。どんなにアサーティブな姿勢であっても、結局は相手を一方的に責めてしまうという「おいしいワナ」に陥ってしまうことは、本当に、本当によくあることだからです。</p>

<p><strong>アサーティブネスは、単に、「話す」「聞く」だけではなく、「対話を通じて問題解決をしていく視点を持つ」ことが不可欠</strong>なのですよね。</p>

<p>ところが、アサーティブネスのスキルを手に入れると、自分の思いに一生懸命になるあまりに、自分にとっても相手のとっても最良の解決策を一緒に探っていくことよりも、「伝えきる」ことに注力が注がれてしまうことは、よくあることなのです。</p>

<p>実は、来年度4月に学習会を企画しています。それは、まさに「<strong>問題解決に向けてのアサーティブネス</strong>」ともいえる視点を、私たちが持つための時間です。</p>

<p>「<strong>本当に自分の意見をしっかり伝えているか、その際、相手の立場をしっかりと踏まえているか、感情と事実認識を区別して伝えているか、相手のいいところまで否定していないか、対話をすることはお互いの成長に貢献したか（対話することで、自分が傷つき、相手を傷つけていないか）</strong>」、と問いかけているのは、<strong>稲葉一人先生</strong>。稲葉先生は、元大阪地方裁判所判事で、現在、中京大学法科大学院教授、久留米大学医学部客員教授、熊本大学大学院客員教授をされています。この先生を呼んで「メディエーション」についての学習会をする予定です。</p>

<p>「メディエーション」とは、一般的には「調停」とか「あっせん」とか言われますが、民事上の紛争を第三者が入って「対話で問題を解決する」というものです。例えば、マンションでのトラブル、医療事故の問題解決など、裁判まで行かなくても当事者同士が話し合って問題の解決をしていく必要があるときに、対話で当事者が問題解決できるように、第三者がファシリテーターとして介入して問題解決を促進してくものです。</p>

<p>そこに求められているのは、<strong>お互いを理解しながら粘り強く対話を促進していく心の力、そして個人の対話の力</strong>です。</p>

<p>この研修については、年が明けましたらウェブ上でアップしますね。興味のある方、ぜひぜひご参加を検討ください。</p>

<p>さて、今年もあと1週間程度となりました。皆様には本当にお世話になりました。来年も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。</p>]]>
        
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    <title>もう一歩踏み込む勇気を</title>
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    <published>2011-12-18T02:35:11Z</published>
    <updated>2011-12-30T23:30:45Z</updated>

    <summary>傷つきやすい人が増えている、というのは、ここ数年の傾向です。何気ない一言に過剰に...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
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        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>傷つきやすい人が増えている、というのは、ここ数年の傾向です。何気ない一言に過剰に反応して、腹を立てたり、キレたり、関係を切ったり。一方で、自分が傷ついたのはあなたのせいだという「他責」の傾向も増えています。傷つけた相手を執拗に恨んだり、謝罪を要求したりという「モンスター〇〇」も、確実に増えてきているように思います。</p>

<p>こういう時代だからこそ、私は次の2つのことを心にとめておきたいと思っています。</p>

<p>一つは、<strong>伝える側として、「言いさえすれば相手はわかってくれるという思い込みを捨てる」こと</strong>です。相手は自分とは全く違う「他者」ですから、たとえ共に暮らす身近な人であっても、言葉を尽くして表現しないと伝わらないし、たとえ言葉にしたとしても理解に至らないことはたくさんある、という前提に立ってみるのです。</p>

<p>もう一つは、<strong>受け取る側として、「言葉の裏にある思いにもう少し踏み込んでみる勇気を持つ」こと</strong>です。相手の言葉尻をとらえて腹を立てたり、表面的な言葉にいちいち傷ついたりしないだけの心の余裕と、「どうしてなんだろう」と相手を深く理解しようと思って向き合ってみるのです。</p>

<p>同時に、誰かを傷つけるとか、自分が傷つくことが、「人間としてダメでいけないこと」と思いこんでいるかもしれない自分自身を、丁寧に検証する必要もあるように思います。相手を傷つけた私はひどい人、私を傷つけたあなたは悪い人、となってしまう限り、「もう一歩踏み込んでお互いの理解を深める」という地点にはたどり着かないのではないでしょうか。</p>

<p>社会が多様化するということは、自分の経験値だけでは「わからない」人が増えていく、ということですよね。価値観がまったく違う、文化や背景が異なる人と対話をしなければならないという機会が増えてくることを、覚悟することでもあります。そういう時代だからこそ、傷つくのも当然、傷つけるのも当然のこと、「だから、何？（So, what?）」くらいに構えて、その痛みを超えてもっと深い人間関係を築くという方向に進んでいく。そうして初めて、私たちの社会は、「寛容さ」を身につけることができるようになるのではと、最近つくづく思うようになりました。</p>

<p>痛みは、とても意味のあるシグナルです。自分と相手との違いがはっきりする「境界線」が見えることであるし、「ああ、自分はこういうところで傷つくんだ」と自分を知る機会にもなります。相手の言葉や態度が嫌だったら、きちんと「〇〇の言葉はやめてほしい」と、誠実に、率直に、相手を尊重しながら伝えましょう。同時に、相手が嫌な顔をしたら、「私の言葉の何が嫌だったか、教えてもらえないだろうか」と、率直に聞いてみることで、相手の理解も進んでいくでしょう。</p>

<p>人はみな違って当然。頭でわかっていることですが、実際に起こる不協和音に対処できる力を、少しずつつけていきませんか。もう一歩踏み出して、言葉を尽くして対話をしていく勇気を、一緒にはぐくんでいきましょう。<br />
 </p>]]>
        
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    <title>アサーティブであればすべての人とうまく行くわけではない</title>
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    <published>2011-11-16T03:10:35Z</published>
    <updated>2011-11-16T03:15:25Z</updated>

    <summary>自分がアサーティブになれば、嫌いな人はいなくなる、と思われている方がいらっしゃる...</summary>
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        <name>汐生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>自分がアサーティブになれば、嫌いな人はいなくなる、と思われている方がいらっしゃるようです。残念ながら、アサーティブになるということは、周りの人すべてを好きになったり、すべての人との関係がよくなる、ということではありません。</p>

<p>私たちは、今まで以上に価値観も文化も考え方も多様な社会の中に生きています。今回の大震災の後でも、身近な人たちとの思わぬ価値観の相違に改めて驚いたという人もいたのではないでしょうか。従って、ウマが合う、合わない、好き、嫌い、という感情は、自分と違う「他者」と共に生きている中で、必然的に生じるものであるのです。</p>

<p>むしろ、アサーティブに振る舞うことで、これまで問題がない（かのように見えた）関係に「波風が立つようになる」ということは、大いにあることです。</p>

<p>アサーティブなコミュニケーションを取ることは、相手を好きになることでは必ずしもありません。問題がなくなるということでもありません。目の前にいる相手が好きか嫌いか、得意か苦手か、ということについて正直に自分の気持ちを認識したうえで、その、<strong>好き・嫌いの感情に振り回されないで、アサーティブに振る舞い、問題解決に取り組んでいける</strong>、ということなのです。</p>

<p>相手のことが嫌いだからといって、ぞんざいな態度をとってもいい、バカにしてもいい、ということでは、決してありません。どうしても好きになれなくても、苦手であっても、逃げ腰になることも斜に構えることもなく、誠意をもって率直に、対等にコミュニケーションを取ることを忘れない、ということなのです。</p>

<p>自分がこうなるのは、あなたのことが嫌い（苦手）だからだ、と、自分の行動を相手のせいにして責めることもしません。苦手な相手であっても、向き合って話をするときには、お互いを尊重し、自信をもって、話し合いをあきらめないで続けていこうと、覚悟を決めるということでもあるのです。</p>

<p>最初は苦手でも、話し合いを続けていく中で、相手のことが理解できるようになって、好きになったり、許せたり、ということは、いくらでもあることです。その反対ももちろんあります。人間の感情はそれくらい、不確実で変化するものである、と思って、おつき合いする方が、世界の奥行きは広がっていくのではないでしょうか。</p>

<p>大事なことは、自分の感情に振り回されることなく、反対に感情を殺してしまうこともなく、あきらめずに粘り強く対話を続けていけるようになること。引き続き、チャレンジしていってくださいね。<br />
</p>]]>
        
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    <title>「ノー」はいつ、どのように判断したらいいのか</title>
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    <published>2011-10-09T03:03:17Z</published>
    <updated>2011-10-09T03:19:19Z</updated>

    <summary>アサーティブトレーニングでは、「ノー」の伝え方について学びます。相手の気持ちや価...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
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        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>アサーティブトレーニングでは、「ノー」の伝え方について学びます。相手の気持ちや価値観を尊重しながらも、自分の「ノー」を率直に伝える、伝え方の具体的な方法についてロールプレイをくり返して身につけていきます。</p>

<p>「ノー」と伝えることで、相手が拒絶されたと思うかもしれない、傷つくかもしれない、反発や攻撃されるかもしれないということを覚悟の上で、率直に誠実に伝えるためには、「伝え方」そのものを日ごろから訓練しておくことがとても大事になります。</p>

<p>しかしながら、実は一番難しいのは、自分の「ノー」の判断そのものではないかと思う時があります。いつ、何について、どこまで、なぜ、自分は「ノー」と言うのか、ということです。</p>

<p>例えば。</p>

<p>自分の身近な人が好ましくない行動をとっている（お金の使い方や食べ物、嗜好品など）。その時、いつ、なぜ、何について、自分は「ノー」を言うのでしょうか。「これ以上はダメだ」「もうやめてもらいたい」という「ノー」の線は、いったいどのように判断すればいいのでしょうか。</p>

<p>相手から好ましくない行動をとられている（理不尽な批判、個人的な質問の数々、必要のないものを勧められる、など）。その時、いつ、なぜ、自分は「嫌だ」という線を引くことができるのでしょうか。相手が善意の場合はどうでしょう。また、悪意の場合はどうでしょう。</p>

<p>業務のようにきちんとコストや期限の限界が明示されていれば、その判断はしやすいのですが、こと人間関係においてのそれぞれの境界線や価値観が関わるとき、その判断はぐっと難しくなるのです。</p>

<p>つまり、ノーの「伝え方」も重要ではありますが、ノーというタイミングや理由の「判断」そのものについても、しっかりと考えておく必要があるのではないかということです。</p>

<p>「これ以上はノーだ」と自分の境界線や限界について伝えるとき、自分の中の「大丈夫な線」と「大丈夫ではない線」を一体どこで引くのかという判断は、すぐにわかるものではありません。</p>

<p>アサーティブなコミュニケーションでは、なるべく早い段階で小さな「ノー」を確実に伝えよう、とお勧めしています。早いほど問題が小さいため、言葉にすることが容易になり、引き延ばせば引き延ばすほど言葉にするのが難しくなるからです。</p>

<p>しかし、その「ノー」の判断をするのは、私たち自身。そこが実はとってもとっても難しいわけです。</p>

<p>まあいいか、これくらい大丈夫、自分はこれくらいだったらできる、と、イエスと言い続けた挙句に、気づいたら心が折れる寸前だったということにならないように、ノーの伝え方とその判断については、日ごろから意識して訓練しておくことが必要になるのでしょうね。<br />
 </p>]]>
        
    </content>
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    <title>異文化の理解は難しい</title>
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    <published>2011-10-07T02:11:42Z</published>
    <updated>2011-10-07T02:16:38Z</updated>

    <summary>前回のエントリーからあっという間に1か月がたってしまいました。皆様ご無沙汰してい...</summary>
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        <name>汐生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>前回のエントリーからあっという間に1か月がたってしまいました。皆様ご無沙汰しています。国立のメインストリートのイチョウや桜の木々が、うっすらと色づき始めています。</p>

<p>急に涼しくなり「秋」を感じるようになったので、ふと秋のエピソードを思い出しました。</p>

<p>アサーティブネスは「ことばの力を使って」、対話を重ね問題解決をしていくものですが、「ことばの力」で伝わるものと伝わらないものがあるということを痛感することが時々あります。とりわけ、文化の違いによる「美しさ」の概念を理解し合うというのは、本当に難しいですね。</p>

<p>先月のことです。その日は「異文化コミュニケーション」というテーマで夜まで研修があり、私はアメリカ人講師と一緒に研修を担当していました。研修が終わって外に出ると、東の空にぽっかりと美しい月が。その日は「中秋の名月」にあたり、月がいつもに増して輝いている夜でした。</p>

<p>私：「ほお、月が、きれいですね」<br />
相手：「ええっ、月の何が？」<br />
私：「ほら、あの空の月、9月の月は本当にきれい」<br />
相手：「うーん、そうですかねぇ・・・」</p>

<p>"Beautiful"をくり返しても、「日本には"中秋の名月"を愛でるという文化があるのだ」と伝えても、文化の存在については理解してもらえても、実際の月の"美しさ"そのものを理解してもらうことは空振りに終わりました。</p>

<p>美しさを感じるのは、たぶんに私たちの生まれや文化、何をもって美しいと感じるのかという刷り込みによるものなのでしょうね。どの国の人が見てもすばらしいと感じる世界遺産もありますが、中秋の名月の美しさについては、かなりの部分、日本の文化の刷り込みによるのだなと痛感しました。</p>

<p>後日の会議で、一人のスタッフが「あの夜はとっても月がきれいだったので、お団子を食べながらじっと月を愛でていた」という話にスタッフ全員がうなずいていて、言葉を介しなくとも共通理解が得られることと、異文化理解の難しさについてしみじみ感じたのでした。</p>

<p>言葉の力を尽くしても、理解しあえないものはあります。それが良い、悪いではなくて、「違う」ということそのものを受け入れ、葛藤し、それでも一緒に生きていくことを選択する。異文化理解、相互理解というものは、そうしたことの積み重ねの上にあるのでしょうね。</p>

<p>中秋の名月の体験から、もう一度そんなことを感じた夜でした。</p>

<p> </p>]]>
        
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    <title>「アグレッシブ」の本当の意味</title>
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    <published>2011-08-28T11:52:34Z</published>
    <updated>2011-08-28T21:32:54Z</updated>

    <summary>先日のアドバンス講座では、自分のネガティブな感情を他人のせいにしない、ということ...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>先日のアドバンス講座では、自分のネガティブな感情を他人のせいにしない、ということについて話し合いました。</p>

<p>私たちが日常で取りがちな、アサーティブ<strong>ではない</strong>振る舞いには、攻撃的、受身的、あるいは作為的な態度があります。その中でも、攻撃的なコミュニケーションは基本的に、「あなたが悪い」「自分が腹が立つのは相手ののせいだ」というスタンスに立っています。</p>

<p>それでは、常に自分を責め、「自分さえ我慢すれば」「相手が〇〇だから仕方ない」と思いがちな受身型のコミュニケーションはどうなのでしょう。あるいは、言葉ではなく態度で相手をコントロールする、作為的なコミュニケーションはどうでしょうか。</p>

<p>アサーティブなコミュニケーションが取り扱うものの一つに、対立状況の中で私たちが持たざるを得ない不安や恐怖があります。新しい事態への不安、立場の違う人と向き合う時の不安、対立状態になった時の恐怖、失敗や拒絶の恐怖。つまり、相手と向き合って話し合う前に、まずは自分が向き合うものは、自分の中の恐怖や不安なのです。</p>

<p>受身型のコミュニケーションは、一見「自分が悪い」ということで、相手を責めていないように見えますが、実は、自分の不安は相手によって引き起こされている、相手によって自分は損している、困っている、苦しんでいると、問題を引き起こしている原因は相手にあると考えていることには変わりありません。</p>

<p>実はこの、「自分は被害者」「相手は加害者」という思考パターンが、対等な話し合いを阻害している要因の一つなのです。コミュニケーションの表現の仕方が攻撃的か受身的かは、単に「表れているものが違う」だけであり、誰かを加害者にして責めているということには両者は同じスタンスにあります。</p>

<p>アン・ディクソン氏が来日した時、「アサーティブネスとはaggressiveではないやり方を選択し続けることだ」と、何度もくり返し話していました。英語の「aggressive」を訳すときに「攻撃的」と訳してしまうと、本来の意味から外れてしまうのだということを今さらながら反省しています。攻撃的であるというのは、表現の仕方がきついとか一方的であるということではなくて、相手を加害者にしているマインドそのものを指すからです。</p>

<p>私たちは、つらいとき、嫌な思いをするとき、自分の感じている嫌な思いは誰かのせいでもたらされたのだと思いがちです。そのほうが簡単だし、自分は無実でいられるからです。しかし、自分の怒りも嫌な気持ちも、誰かが意図的に起こしていることはまれで、自分の感情は誰かに持たされた、のではなくて、自分が感じている。それだけなのです。</p>

<p>相手を悪者にしない。ましてや加害者にしたり「敵」にしない。相手は、自分と同じ血の通った一人の人間であり、目の前の問題解決のパートナーである。「加害者」に見えたとしても、相手もまた「被害者」であるかもしれない、という事実に目を向けること。</p>

<p>本当に問題を解決していくためには、心の中の攻撃性と折り合いをつけていくしかないのかもしれません。</p>

<p> </p>]]>
        
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    <title>社会的責任がついてくる</title>
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    <published>2011-08-16T11:44:41Z</published>
    <updated>2011-08-28T11:48:16Z</updated>

    <summary>北川達夫さんの『不都合な相手と話す技術』（東洋経済新報社）を読み終え、グローバル...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E9%83%BD%E5%90%88%E3%81%AA%E7%9B%B8%E6%89%8B%E3%81%A8%E8%A9%B1%E3%81%99%E6%8A%80%E8%A1%93-%E2%80%95%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%BC%8F%E3%80%8C%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E5%8A%9B%E3%80%8D%E5%85%A5%E9%96%80-%E5%8C%97%E5%B7%9D-%E9%81%94%E5%A4%AB/dp/4492043950">北川達夫さんの『不都合な相手と話す技術』</a>（東洋経済新報社）を読み終え、グローバルな視点にたってのタフな「対話」の意味を深く考えさせられました。</p>

<p>「対話」とは、「わからないこと」を前提とした「戦わないコミュニケーション」であると北川さんは何度もくり返します。まさに、「闘い（fight）」でも「逃げる(Flight）」でもない、自分も相手も尊重して対話を継続していくというアサーティブネスのスタンスと、とても共通点の多いものでした。</p>

<p>その中でも、一つ大変心に突き刺さったものがありました。</p>

<p>それは、学校教育の現場で「意見を言わせる」ということと「本心を問う」ことの違いを明確にするというくだりについてでした。少し長いですがここに引用したいと思います。</p>

<p>-------------------<br />
日本的発想が「意見を言わせる教育」において危険な鈍感力を生み出している。内心と言動を切り離して考えることができないためなのか、平気で子供たちの本心を聞き出そうとしてしまうのである。先述の落書き問題であれば、「あなただったら学校の壁に落書きをしますか？」、安楽死問題であれば「あなただったら自分の両親を安楽死させますか？」、臓器移植問題であれば「あなただったら臓器提供しますか？」。つまり一定の条件や情報の下で立場を明確にするだけではなく、個人的な意見決定をするところまで求めてしまうのである。</p>

<p>これは思想や信条にかかわる「内心の開示」を求めるものであり、先生のそれを聞く権利もなければ、子どもにそれに答える義務もない。はっきり言って人権侵害なのだが、まじめで熱心な先生ほど鈍感力を発揮するあたりが恐ろしい。<br />
-------------------</p>

<p>アサーティブトレーニングではロールプレイを行いますが、練習の場面でこの点は大変重要な視点になる部分です。</p>

<p>アサーティブネスは、「言いたいことを言う」のではなく、「本当に伝えたいことを、相手に伝わるように話す」という努力をして話します。自分が「本当はこれを伝えたい」「これについて話し合いたい」ということを、誠心誠意、相手に伝わる適切な言葉にするのです。</p>

<p>しかしこれは、「本心を開示すること」では、必ずしもありません。どんな本音があったとしても、言葉にした段階で社会的責任が生じます。自分の発する言葉を丁寧に選びながら、相手を一方的に責めたり傷つけたり、相手の表現の権利を侵害することにならないように、言葉にしていくのです。</p>

<p>したがって、相手に向き合おうとしたときにドロドロの気持ちが湧き上がってきたとしても、あるいは、これまでの傷ついた感情をぶつけたくなったとしても、言葉として口から出すときには、相手の権利を侵害しない範囲において、将来についての建設的な提案としていく必要があるのです。</p>

<p>自分と相手の内心の思想信条の自由を守りながらも、社会的に発せられる言葉にはきちんと責任を持つ。そのことを忘れないでいたいと思いました。</p>]]>
        
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    <title>口を開く「前に」</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/08/post-60.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1624</id>

    <published>2011-08-03T02:03:25Z</published>
    <updated>2011-08-03T02:06:49Z</updated>

    <summary>アサーティブなコミュニケーションでは、相手をとんでもない「悪者」や「敵」と定めて...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>アサーティブなコミュニケーションでは、相手をとんでもない「悪者」や「敵」と定めて、「やっつけてやろう」「非を認めさせてやろう」というところから、話し合いを始めることはしません。自分と相手との間に存在している問題を、一緒に解決するための「協力者」として見ることから、対話を始めます。</p>

<p>相手を「悪者」や「敵」として見ないということは、どういうことなのでしょうか。</p>

<p>対立するものがやってきたときの、動物の最初のリアクション（反応）は、反撃です。自分のテリトリーに入ってくるものは、まずは威嚇し攻撃します。闘争本能ですね。もう一つは、尻尾をまいて逃げることです。これは防衛本能です。動物のサバイバルの本能として、とても重要なものです。</p>

<p>しかし、複雑な利害関係のからむ人間関係の中で、攻撃か逃げることばかりを続けていては、本当の問題解決にはなっていきません。闘いでも逃げるでもない、「話し合い」という方法とプロセスを経て、問題解決をする力があるのが人間の特性だからです。</p>

<p>話し合いの中でも、アサーティブネスでは、行動や振る舞いを「選ぶ」時に、相手も自分も責めない第三の方法を選びます。「あなたが悪い」でも「自分が悪い」でもなく、自分と相手の間にある「本当の問題は何か」、そして、その問題を一緒にどう解決していけるだろうかというスタンスで、話し始めるのです。</p>

<p>問題は、このスタンスを明確に意識しないままで「アサーティブな」スキルだけを使って伝えてしまうことです。「あなたが悪くて、自分は絶対に正しい。だからあなたが全部変わるべきだ」というスタンスのまま、「事実」→「感情」→「要望」と伝えてしまうと、冷静に優しく相手の首をしめてしまう、非常に攻撃的な伝え方になってしまうのです。</p>

<p>一番大事になるのは、「口を開く前に」自分に問うてみることでしょう。相手を悪者にしていないだろうか、自分自身を正当化していないか、相手が100％悪くて自分は100％正しい、というスタンスに立ってはいないか。それ自体を、話し合いの「前に」検証することなのです。</p>

<p>不思議なことに、そうした「スタンス」、別の言葉でいえば「心の中の姿勢」は、言葉以上に相手に伝わってしまいます。相手を対等に見ているか、誠実に向き合っているのか、本当に問題を解決しようと真摯に努力しようとしているか。</p>

<p>言葉の背景にある、わたしたちの「まなざし」は、特に力関係で"弱い"立場にある人にはよく見えてしまうということに対しては、意識的になるといいかもしれません。</p>

<p>この夏休みにもう一度、アサーティブネスの原点に立ち戻るということを、考えてみたいと思います。</p>]]>
        
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    <title>本物の自己信頼を</title>
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    <published>2011-07-05T11:35:15Z</published>
    <updated>2011-07-05T11:37:41Z</updated>

    <summary> 最近、「自己信頼」という言葉をもう一度かみしめています。 自己信頼の定義にはい...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p> 最近、「自己信頼」という言葉をもう一度かみしめています。</p>

<p>自己信頼の定義にはいろいろありますが、一つは「等身大の自分を受け入れられること」と言えるかもしれません。挫折や失敗をしても、拒絶にあっても、凹んでも、そんな自分を受け入れて大切にしたいと思えること。つらい時に無理に我慢するのではなく、誰かに相談して助けを求めることができること。疲れたら休みをとり、強くなれない自分でも許してあげること。そんなものであると思っています。</p>

<p>しかしながら、最近、「自己信頼」とは全く異なる、表面的な「自信のふり」もよく見られるようになってきました。「自信のふり」というのは、自信満々に見えながらも、実は心の底に不安や恐怖を抱えているという、偽物の自信のことです。</p>

<p>例えば、自信満々の振る舞いをしつつも、相手の反応が自分の期待とは違ったときに、相手を上から見下して否定するとか反撃するとかという行動に出てしまう。これは、「自己信頼」では全くありません。</p>

<p>自分の自信や威厳を、他人を見下すことでしか保てないとすれば、その人の「肝っ玉」の小ささが目立つだけです。敬意を得るどころか、人間の小ささが際立ってしまうでしょう。本来の「威厳」＝dignityとは、静かで深い自己信頼と他者への敬意から成り立っているものだと思うのですが、そうした静かで謙虚な自己信頼からではなくて、目立ちたがりでうるさいのが、「自信のふり」なのです。</p>

<p>本当の自己信頼の土台がないと、人からどう見られるか、どういう扱いを受けるかが、即自分の評価につながってしまいます。「この人がこう言うのは、自分を評価していないからだ」と認識してしまう。目の前にある本当に解決すべきものや取り組むべき問題ではなくて、自分の利害しか見えなくなって、防御するか反撃に走ってしまう。</p>

<p>そんなちっぽけな自己防御の自信ではなくて、深くて揺るぎのない本物の自信を、時間をかけて築いていきたいものです。自分のありように謙虚に向き合い、他者の言葉に丁寧に耳を傾けられるようになって、誠実で対等な人間関係を広げていけるようになりたい。他者の痛みや悲しみにも、寄りそって耳を傾けられるようになりたいと思うのです。</p>

<p>社会の不安が増大するにつれ、ますます自己信頼の土台は試されるようになるでしょう。先が見えないからこそ、一人ひとりが時間をかけて深い自己信頼を築き、互いを尊重しながら対話を続け、これからの社会をどう作っていくかを考えていけるようになりたいと思います。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>建設的に批判する</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/06/post-58.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1100</id>

    <published>2011-06-07T11:40:31Z</published>
    <updated>2011-06-07T11:47:38Z</updated>

    <summary> 震災からもうすぐ3か月になろうとしています。放射能という「見えないもの」を意識...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="講座から" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p> 震災からもうすぐ3か月になろうとしています。放射能という「見えないもの」を意識するようになったことと並行して、これまで見えなかったものがくっきりと「見える」ことにも気づきます。</p>

<p>「見えるようになったこと」とは、例えば、何を大事にしているのかの価値観の相違であったり、不安に相対したときの身の処し方であったり。身近な人の何気ない言葉に「ええっ！こんな風に考えていたの？」と驚くこともあれば、「震災後にさらにお互いが近くなった」という夫婦の関係もあるようです。</p>

<p>このような、相手と価値観が対立してしまう時に、アサーティブに振る舞うということは、いったいどういうことなのだろうかと、震災以来ずっと考え続けています。その中で特に感じるのが、「自分と違う考え方を持った人たちへの批判のしかた」を、私たちは身につけていく時期にあるのだろうなということです。</p>

<p>意見が対立した時に、「あなたは間違っている」と相手を非難、攻撃したり、反対に「あの人は、どうしようもない」と相手を無視したりというような行動を、この間ところどころで見たり聞いたりしました。「和」を大事にし、「出る杭は打たれる」的な日本の文化の中で、お互いを攻撃するのではなく、違いを尊重して、話し合いの中から問題解決に動いていくという術を、私たちはこれまで身につけてこなかったのだなと、つくづく思うのです。</p>

<p>アサーティブトレーニングの講座の中でまず学ぶのは、「フィードバック」です。フィードバックとは、相手の人格と行動とを分けて、人格は尊重しつつも相手の行動や態度に対して、「ここはとてもいい、でも、ここについては○○のほうがさらによくなる」という、具体的で建設的な批判を"プレゼントする"作業です。</p>

<p>私自身、1991年にイギリスでアサーティブネストレーナー養成講座を受けた時も、アサーティブな理論の伝え方やロールプレイのファシリテーションの前に、徹底的に訓練されたのは、「建設的なフィードバックの出し方」でした。フィードバックを適切に具体的に相手に届くように言葉にすることを、くり返し、くり返し、練習したのをよく覚えています。</p>

<p>最近も、とある英国人講師と一緒に仕事をしたときに、このことを痛感しました。彼は本当に、フィードバックが上手なのです。相手を尊重してほめるところはほめるけれども、まずいところはまずいと、具体的に、本人が納得する形で伝えることができるのです。受け取った側も、「なるほど」と理解し、行動に移そうと思うのです。</p>

<p>彼が、ということよりも、私はイギリスの教育現場での訓練の結果ではないかと思います。「人」にフォーカスして責めるのではなく、「事」にフォーカスして改善点を具体的に述べるというスキルを、私たちはもっと意識して身につけていくべきなのでしょう。</p>

<p>相手の行動や態度、考え方や振る舞いなどで、まずはどこを「よい」と思うのか、そして、どこを具体的に変えたほうがいいと思うのか。相手が理解し、納得して行動に移せるようなフィードバック＝建設的な批判は、日々の仕事や家族の関係の中で意識して取り組んでいくしかありません。その日々の積み重ねから、対話の土台はできていくのではないかと思うのです。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「場」の持つ力</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/05/post-57.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1094</id>

    <published>2011-05-26T08:41:16Z</published>
    <updated>2011-05-26T08:43:37Z</updated>

    <summary>週末のもう一つのイベントは、「ワールドカフェ」の体験でした。アサーティブジャパン...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="事務局から" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>週末のもう一つのイベントは、「ワールドカフェ」の体験でした。アサーティブジャパンの長年の協力者である、<a href="http://infohrt.com/ceo_profile.html">大川恒さん</a>をお呼びしての「一日ワールドカフェ・ファシリテーター養成セミナー」。会員さんたち25名でとても楽しい一日を過ごしました。</p>

<p>前日のカタリバの活動と今回のワールドカフェの2つの場を学んで、いろんな気づきを得ることができました。その中でも、「対話の場を作る」ということの重要性については、本当に深く考えさせられました。</p>

<p>私たちアサーティブジャパンの活動は、「個人が対話をしていく力をつけること」を活動のミッションとしています。そのためには、率直に対等に話をすることのできる場を作っていく「ファシリテーター」が必要となるため、「アサーティブネストレーナー」を養成することは、大切な柱の一つです。</p>

<p>一人ひとりが「アサーティブに生きる」ことで周りによい影響を与え、多くの人たちが「自分も相手も尊重する」力をつけることで、社会はよくなっていくんじゃないか。そうした「個人の内側の力」をつけることに、この間全力を注いできました。</p>

<p>今回の体験で思ったのは、「場」を工夫することで、対等な対話を促進することが可能であること。<strong>ファシリテーターが安全で対等に話せる場を作っていくだけではなくて、「場」自身が対等性を育んでいく力を内包しているということ。</strong></p>

<p>個人が「点」として社会を変えていくには、時間がかかります。点が線になり、線が面になるまでには、長い長い時間がかかる。アサーティブネスを学んでも、数か月したらすっかり忘れてしまったり、アサーティブなんてとてもなれない現実の中で一人葛藤するうちに、「アサーティブに生きる」ことをすっかりあきらめてしまう。受講生の方々のそんな声を聞いていると、時々、目の前の道の長さに気が遠くなります。</p>

<p>しかし、今回の「場の力」の持つ可能性を目の当たりにして、点だけでなく面から変えていくことも可能であることを痛感したのでした。</p>

<p>大震災後の復興と原発の問題に直面している今の時代、もはやこれまでの「正しい答え」はどこにもなくなってしまいました。これからは、私たち自身が主体となって、答えを探求してく時代になっています。これからも対話をしながら共に試行錯誤を続けていくこと。そして、そのプロセスの中で、効果的な仕組みや方法を新しく生み出していくしかないのかもしれません。</p>

<p>私たちは何を求めているのか、どんな社会を作りたいのかを、一人ひとりが自分と向き合いしっかり考えていく、そして他者と対話をしながら考えていく。それと並行して、対話の生まれる場やしくみを作り出していくことも、これからはやっていきたいと思います。</p>

<p>そんな様々な可能性を考えながら、もう一度希望を感じることのできた週末でした。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>双方向のエンパワメント</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/05/post-56.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1093</id>

    <published>2011-05-26T00:54:26Z</published>
    <updated>2011-05-26T00:59:57Z</updated>

    <summary>先週末は第7回アサーティブジャパンの総会がありました。全国各地から会員の方々が駆...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="事務局から" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>先週末は第7回アサーティブジャパンの総会がありました。全国各地から会員の方々が駆けつけてくださり、活発な議論で盛り上がりました。</p>

<p>総会の後、記念講演として<a href="http://www.katariba.net/">特定非営利活動法人ＮＰＯカタリバ</a>の方にご講演をいただきました。タイトルは「ナナメのコミュニケーションとは」です。</p>

<p>「<strong>社会は『人がつくるもの』だということ。この社会に生きる私たち一人ひとりが、今よりも少しずつ自分や周りの人に対する優しさと責任感を持ち、働きかけられる社会になれば、もっと元気な社会になるのではないか」</strong>。このことを実現するために、高校生に自分を考える機会を提供する、大学生の先輩たちがその機会のお手伝いをする、そんなしくみをつくりだしたＮＰＯです。</p>

<p>なによりもすばらしいなと思ったのは、受け手も与え手もどちらもがエンパワーされる「しくみ」でした。私たちＮＰＯの活動は、サービスの「受け手」がエンパワーされることを目的として活動を進めていきますが、"カタリ場"では、サービスの「与え手」自身もものすごくエンパワーされる。高校生も元気になるけれど、高校生と対話をした大学生（大人）自身が、「言葉が通じた」と涙を流し成長していく。他者と真剣に関わろうとすることの中から信頼関係が生まれ、大学生（大人）自身も自己信頼を取り戻していく。</p>

<p>「受け手」と「与え手」の双方向で対等なかかわり合いが、「やってあげる」という一方通行の"上から目線"からではなく、対等な視線で信頼関係や希望、生きることの意味を、一つひとつつむぎだしていくというプロセス。</p>

<p>ＮＰＯが提供する"サービス"は、おそらく、"完成された物を提供すること"ではなくて、先駆的で実験的で創造的なもの、社会の問題を解決するための手探りの"何か"を、作り手と受け手が対等に関わりながら作り出していくもの、なのだと思います。希望とか信頼、可能性という新しい価値を、試行錯誤で見つけていくプロセスそのもの、と言ってもいいのかもしれません。</p>

<p><strong>「大人になりたくない子供たちが、大人になりたくなる。」</strong></p>

<p>絶望の波に飲み込まれそうな環境の中で、大人と関わることから、子どもたちが希望をもって「生きていこう」と思えるようになる。</p>

<p>そうした「場」を、クリエイティブな形で、たくさんの協力者を得て、広げていっているカタリバの活動に、心が震えました。世の中まだまだ捨てたもんじゃないな、この社会をよくしていきたいと真剣に考えている人たちがたくさんいるんだな。そうした希望を、私自身もたくさんいただくことができました。</p>

<p>カタリバは、今回の震災で被災孤児になった子どもたち、及び被災地の子どもの心のケアに合わせ、学び・自立の機会を継続的に提供するための<a href="http://www.hatachikikin.com/index.html">「ハタチ基金」</a>を設立しています。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「共感する力」をつける</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/05/post-55.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1057</id>

    <published>2011-05-06T02:55:33Z</published>
    <updated>2011-05-06T02:56:28Z</updated>

    <summary> 3月11日から2か月。震災地との物理的距離や、実際にボランティアに行ったか、知...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="汐生の思い" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p> 3月11日から2か月。震災地との物理的距離や、実際にボランティアに行ったか、知り合いがいるかどうかで、被災地との「温度差」がどうしようもなく生まれている時期にあるような気がします。「一つになろう」「一緒にがんばろう」というかけ声は少し小さくなって、今は一人ひとりの「ケア」や「回復」のあり方にシフトしつつあるのかもしれません。</p>

<p>「一緒に」「がんばろう」というメッセージで自分を鼓舞してきたけれど、震災から2か月たって、少しずつ疲れが出てきているのもまた事実のようです。私自身も4月後半から体調を壊し、気持ちがずっと落ち込んでおりました。ゴールデンウィークでお休みをいただいて、やっと回復してきたところです。</p>

<p>そんな中で、考え続けているのが「共感する」ということです。</p>

<p>震災後の今、私たちが「思いを寄せる」「心がそばにいる」という共感の力を持つことが、日本全体が回復していくプロセスとして、とても重要な要素となっている気がします。</p>

<p>とはいえ、「自分は現地に行っていないからわからない」、「現地を知らないあなたにはわからない」ということで、現地との距離があたかも共感の距離であるかのようなつぶやきも、所々で聞こえてきます。</p>

<p>しかし、共感は「被災地の人たち」だけに感じるものではありません。「弱者」とか「当事者」と呼ばれる人たちは、私たちの周りに当たり前に存在しています。隣に座っている人、一緒に仕事をしている同僚も、実は故郷を失ったり、大切な人を亡くしたということで、心の中で涙を流しているかもしれないのです。</p>

<p>そうした「日常に私たちの周りにいる当事者」に意識的にかかわっていくことが、私たちの「共感する力」をつけていくことになるように思います。自分と違う「他者」の心の痛みや、怒りや、喜びに思いをはせて、心を共に震わせる力を持つ。それを日常の中で続けていくことが、震災地に直接関係がなくても日々の中でもできることではないでしょうか。</p>

<p>共感する、ということは、決して相手の気持ちを「わかる」ことではありません。「わかろうと努力し続けること」の中にこそ、共感は生まれるのだと思います。津波で家族を失った方々の気持ちや、すべてを奪われたという方の気持ちを、私が「わかる」ことはないでしょう。「わかる」と思えば思うほど、「実はわからない」という自分の無力感や距離感に直面することになるだけです。</p>

<p>そうではなくて、「わかろうと努力し続ける」こと。わかりたいと思って、わからないけれども自分の想像力をフル回転しながら、努力し続けること。そして同時に、自分が生きる現場での「私という当事者」も大事にすること。</p>

<p>心の力をつける。私たちの社会の「共感する力」や「他者への寛容さ」をはぐくんでいくのではないかと、思えてなりません。<br />
</p>]]>
        
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>寛容になること</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.assertive.org/d/d_1_4/2011/04/post-54.html" />
    <id>tag:www.assertive.org,2011:/d/d_1_4//6.1051</id>

    <published>2011-04-14T04:42:11Z</published>
    <updated>2011-04-14T04:42:42Z</updated>

    <summary>アサーティブトレーニングの講座の始まりには、いつも参加者のみんなで「News &amp;...</summary>
    <author>
        <name>汐生</name>
        
    </author>
    
        <category term="講座から" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.assertive.org/d/d_1_4/">
        <![CDATA[<p>アサーティブトレーニングの講座の始まりには、いつも参加者のみんなで「News & Goods」（最近のニュースや嬉しかったこと）をシェアする時間をとります。大阪でのアドバンス講座は、2月末と3月末の2回講座でしたし、先週末のトレーナー養成講座も昨年の12月以来の再会だったこともあり、いずれの講座でも参加者の皆さんと「3.11以降のわたし」についてじっくり話す時間を取りました。</p>

<p>不安や怒りから涙もろくなった人、被災地で不安に押しつぶされそうになりながらも希望を忘れず地域で活動を続けている人。東京にいることに耐えられず、地方に疎開した友人もいれば、帰国を望む家族の声をスルーして、東京に残っている外国人の友人もいます。1カ月、ひたすら心にふたをしてきて、「やっと自分の気持ちに気づいて、昨晩初めて泣きました」とつぶやいた人もいらっしゃいました。</p>

<p>それぞれが、それぞれの「3.11以降」を生きている。</p>

<p>多分、日本全体が被災をしたと考えていいのでしょう。私たちが様々な形で「被災者」になり「当事者」になった。そして、それぞれのやり方で今、回復しようとしているのかもしれません。</p>

<p>とはいえ、震災から1カ月がたち、初期の「がんばろう、日本は一つ」という"空気"が少しずつ変わってきているのも事実です。「被災地とそれ以外」「フクシマとフクシマ以外」「東日本と西日本」「日本と日本以外」といった、地域ごとの対立項と同時に、価値観を含めた色々な対立項が際立つようになってきました。福島県から避難してきた人たちに対する心ない偏見の言葉、乗車拒否、宿泊拒否という「排除」の行動もあちこちで見られるようになってきています。</p>

<p>でも。それだからこそ。<br />
震災から1月たった今からが、本当の意味での踏ん張りどころ。対立する価値観や様々な情報に飲み込まれて不安になる前に、少しだけお互いに「寛容になる」ことを意識してみてはどうでしょうか。身近な人とじっくり気持ちを聞きあうことで、自分の意識は変わってくるはず。</p>

<p>すぐ隣で笑っている友人も、職場で一緒に働いている同僚も、実は言葉にできない心の傷を抱えているということもあるのです。「つらいのは自分だけではない」ことに気づくだけで、自分のとげとげした気持ちがほんの少し柔らかくなって、人としての優しさと思いやりを取り戻せるのではないかと思います。</p>

<p>私たちは当事者。当事者として、自分の痛みも相手の痛みも真摯に耳を傾けてみる。痛みを抱えてそれぞれが生きているということに、真剣に思いをはせてみる。</p>

<p>回復には時間がかかります。だからこそ、寛容であることを忘れないで日々生きていきましょう。私もまだまだ手探りですが、一緒に歩いています。遠くの空から全身全霊を込めて心を送りながら、できることを一つひとつやりながら、精いっぱい、そして丁寧に毎日を生きることにします。<br />
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