
アサーティブジャパン代表の森田汐生が、講座での感想や、日々の生活の中で感じたアサーティブネスにまつわるエピソードをアップしていきます。
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カテゴリー:汐生の思い
2009.12.09

12月18日に、新しい本が出版されます。
タイトルは、『気持が伝わる話し方』(主婦の友社 1,500円)です。
昨年の秋から準備を始めて1年かけてやっと出来上がりました。出版社の担当者、編集者の方と議論に議論を重ねて作り上げた本です。
事例をふんだんに入れ、アサーティブに人間関係を作るというテーマをしっかりと書きました。
私自身、この本を書きながら、これまでの気づきや学びを再び思い出しました。ちょうどその間、イギリスのアン・ディクソンさんも来日され、再びアサーティブネスのスキル(Doing)と同時に、アサーティブであること(Being)の重要性をかみしめながら仕上げた本です。
葛藤と向き合い、相手ときちんと向き合うことの大切さを、現在の世の中だからこそ伝えられたらなと思っています。
私の思いのこもった1冊です。どうぞお楽しみに。
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2009.10.16
少し前の話になります。自宅のお風呂がある日突然壊れてしまいました。週末に入る直前だったこともあり、大慌てで大家さんに連絡しましたが、修理の連絡は週明けになりますとのこと。
仕方がないので、近くの銭湯に行くことにしました。
実はこの銭湯、私が学生時代とその後を合わせて5年余り通っていた銭湯です。 もう20年以上も前(!)のことになります。数年前に今のマンションに引っ越 してきたとき、学生時代暮らしたアパートの周りのお店が今も変わらずあることに感激したことを思い出しました。クリーニング屋のおじさんが、ちょっと年をとっても全く変わらず一生懸命働いている様子を見たときは、思わず目の奥が熱くなりました。
銭湯は、あのころと変わらない風景の一つでありました。
私が学生の時は確か、250円から毎年値上がりして、最後は295円だったような気がします(おぼろげながら、ですが)。それが今回行ってみると、450円。これは本当に、プチ贅沢ですね。500円玉を握りしめて行っても、帰り道に自動販売機で飲み物を買うことができない値段です。
もう一つ変わったのは、銭湯のおじさんの座るイス。学生時代は銭湯の脱衣所の方を向いていたのですが、今はちゃんと(笑)、外を向いて座っていらっしゃいました。
がらりと引き戸を開けると、懐かしいにおいと空間がありました。木の床とロッカーと、そして大きな鏡。10円のマッサージチェア。お風呂の中も、あのころと全く変わりませんので、本当に時代を一瞬スリップしたような気がしました。早い時間に行ったので、お風呂場は私一人だけです。そこで、学生時代と同じように体の芯まで温まって、湯けむりの中でのんびり時間を過ごしたのでした。
自宅のお風呂は数日で直りました。小さなバスタブとシャワーの自宅のお風呂は、銭湯の広々とした様子とは全く違っています。手足を伸ばせばすぐに壁にぶつかってしまうような、そんな小さなお風呂です。自宅にいると外に出るのがおっくうになるのですが、時々は銭湯に行ってみようかと今は思っています。
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2009.10.08
マルコムグラッドウェルの『Blink』(日本語版『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』)の中に、大変興味深い一文があります。それは、アメリカで医療訴訟を起こされるドクターと起こされないドクターの違いについて説明した一文です。
医療訴訟を2度以上起こされたドクターと、全く起こされたことのないドクターの違いは一体何か。それは、診察の内容やアドバイス、専門分野に関係なく、最終的に患者を尊重しているかどうかの心の姿勢によるのだそうです。つまり、患者を尊重しているドクターは、医療訴訟を起こされる確立がずっと少ないということです。
心の姿勢が一番現れるのは、態度です。弱い立場の患者は、ドクターの態度や声の調子から、心のまなざしを敏感に感じ取ります。「弱い」立場だからこそ、「強い」相手の態度をより敏感に感じるのかもしれません。グラッドウェルは、その心の態度がもっとも顕著になるのが「声のトーン」だといいます。
声の響きで、目の前の相手をどのように見ているかが手に取るようにわかる---。これについて、最近実際に体験することがありました。あることで病院に駆け込まなければならない事態が生じ、出張先と戻ってから、2,3か所のクリニックを訪れました。
それぞれのドクターは、年齢のころ50代くらいの男性ばかりでしたが、「劇的に」と言えるほど違っていました。出張先で診察を受けたドクターには、まるで「物」のように扱われた感覚を覚えました。戻ってから診察を受けたドクターには、対等な「人間」として扱われた感覚を覚えました。
グラッドウェルは、そうしたドクターの心の中の態度は、15秒以内でわかるといいます。確かに、話し始めてものの5分とたたないうちに、私自身も強く感じたことでした。もちろんそれぞれのドクターの経験値や専門分野を疑うことはありません。おそらくとても優秀な方々ばかりなのでしょうが、普段以上に弱っていた私にとっては、ドクターの態度が言葉以上の「ことば」となって耳に届いてきたのでした。
社会の中には、必ず力関係の「上」と「下」が存在します。そうした立場の違う人たちが向き合って話をするとき、「下」の側の人は相手の心を敏感に読み取ります。例えば、子どもは大人の心を、介護を受ける側は介護する側の心のありようを、部下は上司の心を敏感に感じとります。
だからこそ、「対等である」というのは本当に難しい。「上」に立つ人が権威を振りかざすことなく「上の立場から」「同じ人間として対等に」向き合うということをどのように実践できるのか。これについて、私自身も引き続き考えていく必要がありそうです。
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2009.06.26
このタイトル、実は昨年10月にアメリカでのアサーティブネス研修を受けたときに印象に残ったフレーズです。さすがアメリカ、キャッチフレーズは本当にうまいですね。
ちなみにこのフレーズ、私自身にはとても納得のいく表現です。コミュニケーションの上手下手に関して「性格の問題だ」と思われている方が多いようなのですが、決してそうではないと声を大にして伝えたいと思っています。
一般的に「社交的」であればコミュニケーションは上手、「非社交的」であればコミュニケーションは下手。人づきあいの上手下手は、そのままコミュニケーションの上手下手と重なるものである、というのが一般的に思われていることではないでしょうか。
確かに社交的な人はコミュニケーションに苦労していないように(私には)見えます。知り合いにもいますが、誰とでも楽しくおしゃべりを楽しめる社交的な人は、パーティーでもいろんな人と話して友達になり、飲み会では場を盛りあげ、コミュニケーションを心から楽しんでいますよね。その人の周りには自然と人が集まってきますよね。
その点からすると私は、パーティーでは「壁の花」、飲み会ではもっぱら聞き役(というよりも夜がめちゃめちゃ苦手なので、そもそも参加しない)、テレビを見ないので世間話やお笑い情報についていけない、そんな人間です。子どもの頃から、「この子は話ができない子だ」と親に心配されていましたから、その意味では「社交的」からはかなり離れた人間だと思っています。
コミュニケーションの中でもアサーティブネスは、社交的かどうかではなく、「伝えたいこと・言わなければならないこと・言いづらいこと」を「相手を尊重して伝わるように話す」というスキルです。ですので、どんなに私のような「非社交的」な人間でも、訓練すればできるようになるのです。
言うべきとき、言わなければならないときに、適切にコミュニケーションが取れるということと、性格が社交的か非社交的かということは(それほど)関係ありません。「それほど」、というのは、非社交的な人は、コミュニケーションを取る場が少ない(あるいは少なく選択する)ため訓練の場がなく、その結果コミュニケーションが上達しない場合が多々あるためです。
「自分は性格が・・・」と思う必要は絶対にありません。パーソナリティとコミュニケーションは別物。性格を変える必要はありません。あなたはあなたのままで大丈夫。でもコミュニケーションの仕方は変えられます。あきらめずにチャレンジしてくださいね。
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2009.06.18
知り合いから恐ろしい話を聞きました
彼女はDV被害者の相談業務を行っているのですが、ここ最近2件ほど、夫が「アサーティブ」という言葉を使っていたというのです。「俺がこんなにアサーティブに伝えているのに、理解しないお前が悪い」と責めるというのです。
自分が"アサーティブに言っている"のだから、受け取らない相手が悪いという一方的な論理は、暴力です。そこにはアサーティブの土台である「誠実・率直・対等・自己責任」のかけらもありません。
アサーティブに伝えるということは、あくまで自分が誠実に対等に相手と向き合った結果の表現の"一つ"であって、伝えること自体が目的になることはありません。ましてや、自分が「自分がこんなにアサーティブになっているんだから、相手も変わるべきだ」ということの理由になることは決してありません。相手の権利を尊重する土台を持たない自己表現は、決して人間の対等な関係を生み出すことはないのです。
アサーティブになるのは、相手からもアサーティブに伝えてもらえる<対話のできる対等な関係>を築いていきたいからです。自分がアサーティブに伝えても相手がアサーティブになっていかないとしたら、アサーティブではないのかもしれない、と謙虚に振り返ることが必要なのです。
アサーティブに伝えることのスキルが一人歩きをすればするほど、このような間違ったアサーティブの解釈が、人間関係を豊かにするどころか相手を一方的に攻撃・操作してしまうことになるということを、今回のお話で痛感しています。アサーティブネスの根底に流れる理念や思想が、スキルの陰に隠れて相手を操作する道具と化してしまっていることは、胸がつぶれるほど悲しく情けないことです。
アメリカでのアサーティブネスの本に、「Get what you want without hurting others」(相手を傷つけないで自分のほしいものを手に入れる)というものがあったり、ヨーロッパでのアサーティブネスが、「相手を操作して思い通りにする会話術」的に解釈されたりしてしまう現実を見ながら、日本では絶対にアサーティブネスの人間尊重と対等性を大切にした形で伝えたいと再度強く思いました。
宣伝となりますが、この秋、アサーティブネスの第一人者アン・ディクソン氏が来日します。彼女は「自分という人間と相手という人間が対等に向き合うことは可能である」ということを25年以上伝え続けています。アン・ディクソンさんの話にぜひ耳を傾けてみてください。人と人との対等な向き合い方のヒントが見えてくると思います。
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