2011/7/5 汐生の思い

本物の自己信頼を

最近、「自己信頼」という言葉をもう一度かみしめています。

自己信頼の定義にはいろいろありますが、一つは「等身大の自分を受け入れられること」と言えるかもしれません。挫折や失敗をしても、拒絶にあっても、凹んでも、そんな自分を受け入れて大切にしたいと思えること。つらい時に無理に我慢するのではなく、誰かに相談して助けを求めることができること。疲れたら休みをとり、強くなれない自分でも許してあげること。そんなものであると思っています。

しかしながら、最近、「自己信頼」とは全く異なる、表面的な「自信のふり」もよく見られるようになってきました。「自信のふり」というのは、自信満々に見えながらも、実は心の底に不安や恐怖を抱えているという、偽物の自信のことです。

例えば、自信満々の振る舞いをしつつも、相手の反応が自分の期待とは違ったときに、相手を上から見下して否定するとか反撃するとかという行動に出てしまう。これは、「自己信頼」では全くありません。

自分の自信や威厳を、他人を見下すことでしか保てないとすれば、その人の「肝っ玉」の小ささが目立つだけです。敬意を得るどころか、人間の小ささが際立ってしまうでしょう。本来の「威厳」=dignityとは、静かで深い自己信頼と他者への敬意から成り立っているものだと思うのですが、そうした静かで謙虚な自己信頼からではなくて、目立ちたがりでうるさいのが、「自信のふり」なのです。

本当の自己信頼の土台がないと、人からどう見られるか、どういう扱いを受けるかが、即自分の評価につながってしまいます。「この人がこう言うのは、自分を評価していないからだ」と認識してしまう。目の前にある本当に解決すべきものや取り組むべき問題ではなくて、自分の利害しか見えなくなって、防御するか反撃に走ってしまう。

そんなちっぽけな自己防御の自信ではなくて、深くて揺るぎのない本物の自信を、時間をかけて築いていきたいものです。自分のありように謙虚に向き合い、他者の言葉に丁寧に耳を傾けられるようになって、誠実で対等な人間関係を広げていけるようになりたい。他者の痛みや悲しみにも、寄りそって耳を傾けられるようになりたいと思うのです。

社会の不安が増大するにつれ、ますます自己信頼の土台は試されるようになるでしょう。先が見えないからこそ、一人ひとりが時間をかけて深い自己信頼を築き、互いを尊重しながら対話を続け、これからの社会をどう作っていくかを考えていけるようになりたいと思います。