2011/12/18 汐生の思い

もう一歩踏み込む勇気を

傷つきやすい人が増えている、というのは、ここ数年の傾向です。何気ない一言に過剰に反応して、腹を立てたり、キレたり、関係を切ったり。一方で、自分が傷ついたのはあなたのせいだという「他責」の傾向も増えています。傷つけた相手を執拗に恨んだり、謝罪を要求したりという「モンスター〇〇」も、確実に増えてきているように思います。

こういう時代だからこそ、私は次の2つのことを心にとめておきたいと思っています。

一つは、伝える側として、「言いさえすれば相手はわかってくれるという思い込みを捨てる」ことです。相手は自分とは全く違う「他者」ですから、たとえ共に暮らす身近な人であっても、言葉を尽くして表現しないと伝わらないし、たとえ言葉にしたとしても理解に至らないことはたくさんある、という前提に立ってみるのです。

もう一つは、受け取る側として、「言葉の裏にある思いにもう少し踏み込んでみる勇気を持つ」ことです。相手の言葉尻をとらえて腹を立てたり、表面的な言葉にいちいち傷ついたりしないだけの心の余裕と、「どうしてなんだろう」と相手を深く理解しようと思って向き合ってみるのです。

同時に、誰かを傷つけるとか、自分が傷つくことが、「人間としてダメでいけないこと」と思いこんでいるかもしれない自分自身を、丁寧に検証する必要もあるように思います。相手を傷つけた私はひどい人、私を傷つけたあなたは悪い人、となってしまう限り、「もう一歩踏み込んでお互いの理解を深める」という地点にはたどり着かないのではないでしょうか。

社会が多様化するということは、自分の経験値だけでは「わからない」人が増えていく、ということですよね。価値観がまったく違う、文化や背景が異なる人と対話をしなければならないという機会が増えてくることを、覚悟することでもあります。そういう時代だからこそ、傷つくのも当然、傷つけるのも当然のこと、「だから、何?(So, what?)」くらいに構えて、その痛みを超えてもっと深い人間関係を築くという方向に進んでいく。そうして初めて、私たちの社会は、「寛容さ」を身につけることができるようになるのではと、最近つくづく思うようになりました。

痛みは、とても意味のあるシグナルです。自分と相手との違いがはっきりする「境界線」が見えることであるし、「ああ、自分はこういうところで傷つくんだ」と自分を知る機会にもなります。相手の言葉や態度が嫌だったら、きちんと「〇〇の言葉はやめてほしい」と、誠実に、率直に、相手を尊重しながら伝えましょう。同時に、相手が嫌な顔をしたら、「私の言葉の何が嫌だったか、教えてもらえないだろうか」と、率直に聞いてみることで、相手の理解も進んでいくでしょう。

人はみな違って当然。頭でわかっていることですが、実際に起こる不協和音に対処できる力を、少しずつつけていきませんか。もう一歩踏み出して、言葉を尽くして対話をしていく勇気を、一緒にはぐくんでいきましょう。