2010/7/22 講座から

犠牲者にならない

2010yousei_vol3_5156.jpg先日、アサーティブネストレーナー養成講座で合宿研修を行いました。第3回目の合宿研修のテーマは、「自分に向き合う、社会に向き合う」。アサーティブネスの大きな柱である「対等性」を軸に、社会の中の「はしご」に位置づけられる自分を認識し、社会の中の課題に向き合うというテーマにじっくり取り組みました。

2日目には、私たちの団体の会員トレーナー3名の方に、ゲストスピーカーとしてトークをお願いしました。それぞれ、「はしご」というメタファーでは上だったり下だったりですが、それぞれアサーティブに生きることを実践されている素晴らしいお話でした。中でも印象的だったのは、誰ひとり「犠牲者」の立場で話をする人がいなかったことでした。

2001yousei_vol3_5185.jpg私たちはいとも簡単に「自分は犠牲者だ」と思いこみ、そのように振舞ってしまうことがあります。「あいつが悪い、自分は犠牲者だ」、「社会/会社/上司/家族が悪い、自分は犠牲者である」という視点。誰かや何かを悪者に仕立てて、自分は責任のない"犠牲者"。犠牲者である限り、周りを責め、社会を責め、仕組みを責め、自分を責め。誰かを責めていれば、本当の問題に向き合わなくて済むのです。

アン・ディクソンさんが来日した時のワークショップで、「性差別」を取り上げたことがありました。性差別の中では女性はえてして「犠牲者」の側になり、男性や仕組みを「加害者」に仕立て上げることになりがちです。しかしアンさんは、「自分が性差別に加担した事実を挙げてみる」ことを課題として出しました。性差別を自分自身が助長していたことに気づかない限り、本当に差別に向き合うことはできないということだったのです。

女性が性差別に加担することは、考えてみれば沢山あります。自分の息子に「男なんだから・・・」と声をかけてしまう、心の中で「どうせ女性なんだから責任をとらなくてもいい」と言い訳を考えてしまう、他の女性が差別されていることに気づかないふりをする、など。社会の差別に実は自分も何らかの形で加担している事実に気づくことが、「はしご」を相対化する第一歩なのだというお話でした。

自分の振る舞いが攻撃的であっても受身的であっても、心の中では「相手が悪い、自分は悪くない」という構図を持っていることはしばしばあります。心の中では誰かを「責めて」いるわけですね。アサーティブネスはその意味では、「自分も他人も責めることをやめる」という心のスタンスだと言っていいかもしれません。

3人のお話を聞きながら、私は涙が止まりませんでした。悩み、葛藤し、失敗し、勇気を持ってそれでも前を向いて、自分も他人も責めないで生きている。そんな人たちの姿は美しいなあとつくづく感じ、勇気をたくさんいただいた時間となりました。